6/16/2007

Yamamoto House hotpot

Last night I went to a dinner party at Yamamoto House, one of the apartment complexes Yamasa owns. On the way, I ran into two friends in front of Kuishinbo Taro and was invited to join their get-together for the evening. I was so tempted to, but, of course, I couldn't. (Thanks for the invitation, though, guys. Sounds like it was fun! And as cute as expected.)

But I had a lot of fun over at Yamamoto House eating hotpot with everyone. Truly an evening of laughter, drama, and great summer-themed beauty (as you can see). Toward the end, we all went to the roof and shot off some fireworks too. (Man, what a view from up there, too.)

Thanks, Rhoda!

I'm so out of the loop ...

20 comments

Anonymous said...

Who is the cute woman on the photo?

And what does "out of the loop" mean?

myiope said...

Looks like you had lots of fun as well on your side! Incidentally, the next day I was on that rooftop shooting fireworks too! It was my first time to do such a thing; I can't believe I almost missed out on it.

Jonathan said...

This beautiful young lady is my schoolmate, Kaku, who is quite well known.

To be "out of the loop" means that one is not up-to-late on the latest information that most other people already know. (The comment itself was a non sequitur—a comment that has nothing to do with what came before—basically intended for those that attended the party.)

Anonymous said...

輪からはずれちゃったわけね。
でもちょっと日本語のニュアンスとも違うかな。
輪からはずれる。
例文
「子どもたちをその気にさせること、皆の輪からはずれる子には声をかけて"いっしょにやろうよ"と声をかけるのが、リーダーの役割だ」(グーグルしたらでてきた。)

Oh she is a kanfoo girl.pretty cute.

Jonathan said...

そうですか。例文の最後はよくわかったと思いますが、最初の「子どもたちをその気にさせるこ」の意味は私にわかりにくいです。特に、前と後ろの関係がわからないですが。悪いんですが、これを多少教えていただけませんか。

Anonymous said...

文脈を忘れてしまいましたが、多分学校の先生か誰かが書いた文章です。で、何かの活動を子供たちにさせようとしているわけです。騒いでいる子供もいれば、他のことに興味をもっている子供もいる。そうしたときに「その子供たちにその活動をする気にさせる」ことがリーダーの役割だ、と言っているわけです。
そうやってまとまりができても、それでもその輪ーーこの場合、その団体活動に興味を示さないで参加しない子がいる、そうした子供が「輪からはずれた」子供、というわけですね。
で、そうした子供には「いっしょにやろうよ」と声をかけてあげましょう、と。

Anonymous said...

ちなみに、そうやって団体活動で協調して行動することが日本的な教育なのかもしれませんね。
オリンピックの各国の行進などみるとアメリカ人の行進なんてバラバラでしょ。あれがアメリカの強みなんだな、とおもってしまう。つまり、日本人は団体行動するときはいいけど、個人対個人だと圧倒的にアメリカ人の方が強いじゃないかと。

そういえば、アメリカ留学から日本に帰ってきたとき、面白いテレビを見たことを思いだします。
アメリカの蜂が一匹、日本の蜂の集団に取り囲まれるのです。アメリカの蜂はデカい。日本の蜂の2~3倍あったように思います。針もでかいのをもっているのです。ところが、日本の蜂の集団に取り囲まれ、窒息死させられてしまうのです。
当時、アメリカからかえって多少アメリカ文化に慣れて、自己主張するようになっていましたが、日本に帰ってきて上下関係やら何やらで日本では自分の意見をそうやって言ってはならないのだ、という日本の現実に直面していました。なんかそれを象徴したような番組だったので覚えているのです。
ジョナサンさんもこれから様々なカルチャーショックを受けると思いますが、あんまり日本を嫌いにならないでね。
やはり、これはひどい!と思うようなことでもその文化全体のなかではそれが有効に機能してきた歴史があり、またそれが変化、進歩していくにも、その文化独特の変化、進歩の仕方があるのだと思います。

マリアンナ said...

Anonymousさん(あなたの呼び方は何が良いんだろう?)アメリカに留学していたんですね。

自己主張、私もカルチャーショックを受けました。
日本では言ってはいけないことが結構あるみたいですよね。
イタリアでは、自分の意見を言わないことは恥ずかしいことです。
そうでなくても、意見を聞かなかったら、どんな人かなかなか分からないと思います。
お互いに意見を全部言って、自分と違った場合「そんな考え方もある」と納得したり納得させたりします。
直したら良くなることを言って相手が怒った時はおどろいたけど、「そんな文化もあるのか...」と今は納得(?)して、気を付けています。

食事のマナーでも、正反対のことが結構あります。
でも、だから、もっと興味がわくと思います。
もし同じだったら、旅行が少ししかおもしろくないかも...。

とにかく、大切なことは...
pace nel mondo!
peace of the world!
世界の平和!

黒澀恵 said...

はは~~カクさんはYAMASAのちょう~~~有名人なんですよ!!!


やはり異文化コミュニケーション本当に面白いですよね!!!自分の思いを言いたくて表したくてしようがなかったんですが、語彙が足りない、...これは最初言葉を学習した動機だと思います。でも勉強すればするほど、日本語に深い影響を与える国民の性格、歴史、文化などのことに興味を持って夢中になってきます。日本人の習慣と文化を分からないことには、日本語がいくら上手になっても日本人と話すとき、心が通じあわないですね。いわゆるコミュニケーションできないです!でもそれは多分日本語だけじゃなく、どの国の言葉でも同じですよね!!!だから旅行もカルチャーショックもずっと魅惑的なのですね~~♡

(ちょっとおかしい表現なので...分からないかも...)

Anonymous said...

マリアンナさん
世代にもよりますけど、やはり日本人は自分の意見をあまりいわない。
テレビの政治番組ならべつですが、意見をはっきりさせないことが日本ではむしろ美徳なのだと思います。
人にアドバイスするときでも直接的な表現よりも暗示的な表現の方が好まれます。こうせよ、より、こうしたらどうかな?ってな方がいいかもしれませんね。
なんて言うか....
それでいて自分の意思がないわけではない。それを読みとって対応する、というのがいわゆる「腹芸」ってやつですね。意思伝達の仕方が文化によって異なるのだ思います。

黒澀恵
すばらしい意見ですね。全くその通りだと思います。こうさんの深い洞察に頭が下がります。


(ちょっとおかしい表現なので...分からないかも...)
→いやよくわかりました。

マリアンナ said...

コウさんの言うとおりと思います!
本当に、日本に来てすぐの時は、習慣と文化をよく理解できていなかったから、上手にコミュニケーションをできていなかったけど、今はずいぶんなれたから、コミュニケーションをできて、友達もできたと思います。



そう!意思を少しあいまいに伝えるんですよね。
「私はあんまかも」「私は好きかな」「びみょう」と話しているのを聞いた時、最初は"なぜ自分の今の考えを分からない?"とか"少し(びみょう)何?"とか、そのまま考えていました。
でも、今は分かっているつもりかも ;-D
たぶん、優しさかな?

Anonymous said...

あいまいに言うというのは、違う意見を言って調和を乱さない、相手を傷つけないということもありますが、その反面無責任ということにもつながりますね。
まあ、ごく親しい友人や夫婦なんかでは日本人でもめちゃくちゃいいあいますけどね。多分対人関係での距離の置き方が文化的に違うのかもしれませんね。ここらへんの問題はアジアcollectivism ヨーロッパindivisualismとのみ割り切ってしまえるほど簡単なものでもないように思えます。

(因みに「思います」と言えばその思う主体が私ですね。「思えます」「思われます」といえば、その思いがある、ということで主体は背景に遠ざかっていく。日本語で「私」という語を省いてしまう論理と相通じるものがあります。「私」を前面にに出さない。そして私の意見も前面には出さない。他の投稿のコメント欄で仏教の話しがでましたけど、諸法無我ーーーすべてのものに「我」「実体」というものはない、「空 void,empty」なわけです。といっても、仏教の影響で日本語そうなったというより、もともとそういう背景があったから仏教をうけいれやすかったのかもしれませんね。)

黒澀恵 said...

諸法無我と「私」を省いてしまう論理、これを見てピンときました。マリアンナさんによると、イタリア語も同じ、よく「私」と言う語を省いちゃいます。それはたぶん、単に動詞の変化で「私」が主語ということをもう知っていますからね?(なぜ関係ないことばかり...)言葉っていうのは、国の文化も歴史も宗教も深い関係がありますよね!!英語も(いわゆるアルファベットを使う語?)バイブルに深い影響を与えられましたね!

Jonathan said...

(皆さん、すごいですね!こんなに深い話が…)

確かに英語はバイブルによく左右されて進化してきたと言えるように思います。コウさんが言った通り、各国の現在文化にも各国語が影響をうけていると思います。

Anonymous said...

多分皆様の日本語は私の英語より数段うまいか、同等です。だから、私が添削しても気にしないで参考にだけしてくださいね。

マリアンナさんによると、イタリア語も同じ、よく「私」と言う語を省いちゃいます

省いちゃうそうです。(「ちゃう」を使ったのはうまかたですね。)

(なぜ関係ないことばかり...)
(あら、私ったら、何で関係ないことばかり言っているのかしら・・・・)

言えるように思います

こうした湾曲した言い方は日本語らしくて、とてもうまいと思います。

黒澀恵 said...

ありがとうございました!!
日本語は、推測する使い方が多いですよね!

ところで、どうして「5学期目完了感想文」のコメントに入れないの?おかしい!?

マリアンナ said...

本当に、歴史や文化や育った環境の違いで人は全く違いますね。
個性をとても大切にする教育で、国内でも「国民は自己主義すぎる、協調性が足りなすぎる」と少し問題になるから、イタリアは特別かも知れないけど...。
「私」を前面に出さない日本に慣れて、「私」を前面に出す国に帰ると、なんだかとてもおもしろいですよ。
どちらにも長所と短所があるけど、どちらも文化に合っていると思います。

諸法無我、全ての人や物は何かと関係があるから存在するということでしょうか?
"おかげさま"とか"けんそん"という言葉は、その気持ちからうまれたのかな?

大学では「イタリア語と同じで、日本語でも主語を省くことがあります」と習ったけど、その理由はまったく違いますね。
イタリア語の場合はコウさんが言うとおり「私」も含めた主語が誰なのかを動詞の変化で言わなくても分かるから(面倒だし、しつこいから)、日本語の場合は深い意味があって省くんですね。

言語だけではなく、色々なことの歴史や文化との関係を考えると、興味深いです。

Anonymous said...

マリアンナさん

諸法無我、全ての人や物は何かと関係があるから存在するということでしょうか?
→まったくその通りですね。関係があるから、存在する。つまり、実体というのは、西洋哲学でも他の何者にも依存しないで存在する存在者ということですが、そうしたものはないんだ、すべてのもの関係するから存在するんだ、その関係のありかたさえつねに、流動的なんだ、ということですね。

"おかげさま"とか"けんそん"という言葉は、その気持ちからうまれたのかな?
→そうですね。だから、自分の努力でやったんだ、とおもっても、一応「皆様のおかげで(例えば)卒業できました・今期も終了することができました」と言うと日本人の人は喜ぶと思います。

ただ、以前にいったようにそれが本当に仏教の影響かはわかりませんよ。
もっとも、縁がある、ご縁がなかった、というのは仏教の言葉です。旦那(だんな)って言葉ももとはサンスクリッドからっきていてダナー布施する人という意味だそうです。

で、日本人の好きな発想は、皆様のおかげです。皆様あってのわたしでございます、というわけですね。
じゃあ、日本人がみな無私でやっているかというと、実は内面ドロドロしてたりする場合も多々あるわけですが・・・(おれのおかげでできたんだろうが!!なんて内心思ってたりする)
だから、実際の日本人の内面性と表現とはちょっと食い違いがありますけど、文化的背景として、あるいは言語として、あるいは、社会的な優雅さとしてはそういう表現が好まれるわけです。


イタリア語の場合はコウさんが言うとおり「私」も含めた主語が誰なのかを動詞の変化で言わなくても分かるから(面倒だし、しつこいから)、日本語の場合は深い意味があって省くんですね。
→言語学者のなかには日本語でも面倒だから、という人はいますね。以前読んだ本の説明では、日本は村社会で、誰もが誰かがわかるから主語は使わないのだ、なんていう説明を読んだことがあります。
日本人の場合、動詞の変化が英語のように1人称2人称3人称ではなく、つねに2人称で、しかも、私は実際には存在しなくて、私はあなたのあなたにすぎない、という説明をしていた人もいます。そして、、あなたにとってのあなたである、私はあなたによって規定されるから、その上下関係で動詞の変化(敬語)がある、というような説明を読んだことがあります。詳しい説明は忘れてしまいましたが・・・

あなたが会社の上司や親しくないひとだった。
お茶をお飲みになりますか?(敬語)
あなたが同等なら
お茶のみますか?
お茶でものもうか?
同等でかつ親しければ
お茶飲む?
男同士なら
お茶でも飲むか?
茶のむのかよ?

てな感じのことを言っているのだと思います。その都度対人関係によって動詞が変化し、それに従って私が規定される。
まあ、ある意味、まさに関係によって「私」が変容するわけですね。

コウさん
ところで、どうして「5学期目完了感想文」のコメントに入れないの?おかしい!?
→ほんじゃいまから入れてきます。

Anonymous said...

こうさん
あらら、勘違い。
間違ったとろろにコメントしちゃったわけね。いやあ、すんません。<(_ _)>

マリアンナ said...

"おかげさま"という言葉を好きなんですよ。
他に"おつかれさま"とか、"お~さま"とか"ご~さま"の形の言葉も好きです。

旦那の元は布施をする人の意味でしたか!!
英語のdonorはそのままみたいと思いますが...。

良い意味でも悪い意味でも、内面と外面は全員がいつも必ず同じではありませんね。
内面は理想ではなくても、外面は理想に近い形にする感じ...。

日本語の動詞の変化は、誰が主語でも変わらないし、現在と未来も同じで嬉しかったですよ(少し覚えやすいから)。
敬語はほとんど分からないけど...(覚えずらいよー! :'-( )。
でも、あなたで私の立場が決まるから、敬語とかになるということは納得できます!!